バイオグラフィー

ザ・バンド (The Band) は、1967年から1976年にアメリカで活動したロック・バンド。オリジナル・メンバーは、カナダ人4人(ロビー・ロバートソン、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、リック・ダンコ)とアメリカ人1人(リヴォン・ヘルム)。1983年にロバートソン以外のメンバーが再結成し、メンバー・チェンジやサポート・メンバーを加えながら1999年まで活動した。

ミュージシャンズ・ミュージシャンとして今なお多くのアーティストから尊敬を集めている。1989年にカナダの Canadian Music Hall of Fame 殿堂入り、1994年に「ロックの殿堂」入りを果たしている。2004年に雑誌「ローリング・ストーン」誌が選出した「100 Greatest Artists of All Time」では50位にランクされている。2008年、グラミー賞の Lifetime Achievement Award を受賞した。

1959年、アメリカのロックンローラー、ロニー・ホーキンスは彼のバック・バンド、ザ・ホークスを連れロックンロールが落ち目になりつつあったアメリカを離れカナダへと活動の中心を移した。しかし、次第にドラムスのリヴォン・ヘルム以外のメンバーがホームシックにかかり脱退したため、現地カナダの若者をメンバーに加入させる。その際集まったメンバーが、ギターのロビー・ロバートソン、ベースのリック・ダンコ、ピアノのリチャード・マニュエル、ガース・ハドソン、後のザ・バンドのメンバーである。1963年までロニー・ホーキンス (Ronnie Hawkins) のバックバンドとして活動していた。

1965年、ザ・ホークスはボブ・ディランのバックバンドとして抜擢される。ディランがアコースティックギターの弾き語りによるフォーク路線から、エレキギターを使用したフォークロック路線へと転換する時期であり、電気楽器を嫌う従来のフォークファンからは壮絶なブーイングを受けた。しかしこれが逆にバンドの知名度を高めることになる。

ディランとホークスとのコンサートツアーは全米、オーストラリア、ヨーロッパと続き、行く先々で賛否両論を巻き起こす。この有様はディランのライブアルバム『ロイヤル・アルバート・ホール(ブートレッグ・シリーズ第4集)』(1998年)に生々しく残されている。ツアー半ばでは、保守的な観客のブーイングに嫌気が差したドラマーのリヴォン・ヘルムが脱退し、後任にはミッキー・ジョーンズが一時的に参加した。

ツアー終了直後の1966年7月、ディランは交通事故で負傷。仕事を失っていたメンバーはディランに誘われ、彼の隠遁地であるニューヨーク郊外のウッドストックに住みつく。このころリヴォンも復帰する。彼等の家はピンクのペンキで塗られており、「ビッグピンク」と名付けられた。ここで行われたディランとのセッションは「ベースメントテープ」と呼ばれ、一部が海賊盤として出回っていたが『地下室(ザ・ベースメント・テープス)』(1975年)として正式にリリースされるまで長く幻の名作とされていた。

1968年、ホークスはバンド名をザ・バンドとし、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』でデビューする。「ザ・ウェイト」は映画「イージー・ライダー」にも使われヒットした。ロックにカントリー、フォーク、R&Bといったルーツ・ミュージックの要素を色濃く反映させた音楽性は非常に高い評価を獲得し、当時の多くのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。

ディランに高く評価されたロビーのギター・テクニックと、リヴォンの土臭いヴォーカルとドラム、力強いリックのベースに堅実なリチャードのピアノ、そして重厚かつ技巧的なガースのキーボードなどが渾然となって、他に真似の出来ない独特のサウンドを作り上げたのであった。

1969年8月17日にはウッドストックコンサートに出演。同じ8月末にはディランとともにワイト島フェスティバルに参加。このワイト島出演の際ザ・ビートルズのジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターと親交を深めた。

その後も『ザ・バンド』、『ステージ・フライト』とアルバムをリリースし、引き続き高い人気を博す。1971年には野心作『カフーツ』でアラン・トゥーサンを招き、ホーンセクションを取り入れる。1973年にはカバーアルバム『ムーンドッグ・マチネー』をリリース。エルヴィス・プレスリーのナンバー『ミステリー・トレイン』や映画音楽『第3の男』を演奏するなど話題を集める。1974年にはディランと共にツアーを行い、興行的にはその年で一番といわれるほどの大成功を収めた。このときの様子はアルバム『偉大なる復活』(1974年)で聞くことができる。また、1972年に発表されたライブアルバム『ロック・オブ・エイジズ』は、スタジオ録音と変わらない演奏スタイルで話題を呼んだ。このあたりから、ロビーがバンドのイニシアチブを取るようになり、リヴォンとの関係が微妙になる。

以後も、リンゴ・スターやエリック・クラプトン、マディ・ウォーターズのアルバム制作に参加、1975年アルバム『南十字星』発表する。だが、バンド内ではツアー活動よりアルバム制作を重視すべきとの意見をもつロビーと、ツアー活動にこだわるメンバーとの対立が激しくなったり、リチャードが疲労とストレスから酒とドラッグに溺れ体調を崩すなどの問題を抱える。こうして音楽活動が行き詰まったバンドは1976年にライヴ活動の停止を発表。11月24日にラスト・コンサートを行なう。(実質的に解散コンサートとなる。)コンサートには多数の大物ミュージシャンが参加した。ホーキンス、ディラン、ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、マディ・ウォーターズ、ドクター・ジョン、ヴァン・モリソン、リンゴ・スター、エリック・クラプトン、ロン・ウッド、ポール・バターフィールド、ニール・ダイヤモンドら、そうそうたる顔ぶれである。この模様はマーティン・スコセッシの手により撮影され、映画「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」として公開、3枚組サントラ盤もリリースされた。

1976年、キャピトルとの契約が残っていた関係上(「ラスト・ワルツ (The Last Waltz)」のサントラをワーナーブラザーズから発表する為)アルバム『アイランド』をリリースするが、最早往年の出来映えは見られず不評に終わる。結局これを最後にザ・バンドとしての活動に終止符が打たれる。

解散後はメンバー各自がソロ活動を始める。

ヘルムは、ドクター・ジョン、ポール・バターフィールド、スティーヴ・クロッパー、ドナルド・ダック・ダンらとRCOオール・スターズを結成。一枚のスタジオアルバムを製作し、ライヴ活動の一環で来日も行う。2006年には、RCOオール・スターズのライヴ音源も発表されている。その後もアルバム「リヴォン・ヘルム」、「アメリカン・サン」を発表する。音楽活動の傍らで映画俳優としても活動している。

ダンコは、メンバーの中でいち早くソロアルバムに着手する。映画「ラスト・ワルツ」の中でも語っていた、アルバム「リック・ダンコ」をリリースする。ゲストにクラプトン、ロン・ウッドも参加している。ツアー活動も精力的に行い来日公演も実現している。

1982年ダンコとヘルムがアコースティック・デュオを組みツアー「リヴィング・ルーム・セット」を開始する。ある公演では、ボブ・ディランの飛び入りも確認されている。そのツアーの最中に、ザ・バンド再結成の機運が高まり、1983年にロバートソン抜きで再結成しツアーを行なう。同年には、ザ・バンドとして初来日公演も行われる。ツアー・メンバーはロバートソン抜きの4人に加え、ケイト・ブラザーズがサポート・バンドとして参加した。

1986年3月4日にマニュエルが自殺するも、ツアー活動は続行。

1990年、ベルリンの壁崩壊後のドイツにて、ピンク・フロイドのロジャー・ウォーターズ主催のライブ・イベント「The Wall Live In Berlin」にヴァン・モリソン、ジョニ・ミッチェルらと共に出演する。20万人もの観客を動員し、その模様はCD、現在はDVDに収められている。

1992年、マディソン・スクエア・ガーデンで行われたボブ・ディランのデビュー30周年コンサートに出演。アルバム『カフーツ』にも収録されていた『マスターピース』を演奏。この模様はコンサートを記録したCD/LDに収められている。

1990年代初頭、メジャー・レーベルであるCBSと契約。再結成後初のスタジオアルバムを製作するも、先に発表されたロバートソンのソロ・アルバムのセールス不振を理由に、レーベルの方針でお蔵入りとなる。結局、CBSからはアルバム発表されることはなく、1993年になってピラミッドというマイナー・レーベルから『ジェリコ』のタイトルでリリースとなった。

1994年、米ロックの殿堂入りを果たす。式には脱退したロバートソンも参加するが、反発したヘルムが参加を拒否。クラプトンを交えて『ザ・ウエイト』を演奏する。

1997年ジェリー・ガルシアのトリビュート (Dead Heads Festival)、ダンコ・フィヨルド・アンダーセンとしての活動のためダンコが来日。 しかし、日本滞在中の5月6日、米国にいる妻にヘロインをホテル宛に送らせた罪で逮捕されてしまった。7月24日、千葉地裁にて彼の有罪が確定し、強制送還となった。

再編ザ・バンドとして3枚のアルバムを発表するも、1996年にリヴォン・ヘルムの喉頭ガンが発覚しアルバム「JUBILATION」では咽頭ガンの後遺症から、かすれた声となってしまう。

更に1999年12月10日にダンコが死去、以後活動を停止してしまった。

リヴォン・ヘルムは、ドラムスとマンドリンの演奏活動は続け、その後再び歌えるようになるまで回復している。 自身のバンドであるリヴォン・ヘルム・バンド名義で2005年には二作のDVD付のライヴ・アルバム「ミッドナイト・ランブル・セッションズ Vol.1」「同 Vol.2」を発表している。

ガース・ハドソンは、2001年にファースト・ソロ・アルバム「ガースの世界」(原題:The Sea To The North)を発表。また、妻のモード・ハドソンと演奏活動を続けている。モードとの共同名義でのライヴ・アルバム「ライヴ・アット・ザ・ウルフ」も2005年に発表している。

ロビー・ロバートソンは、ザ・バンドのボックス・セットのコンピレーション・プロデュースや監修を行っている。ソロ・アルバムは1998年の「コンタクト・フロム・ジ・アンダーワールド・オブ・レッド・ボーイ」が現段階での最新作である。

エリック・クラプトンは、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』を「人生を変えたアルバム」と評しており、彼のアルバム『ノー・リーズン・トゥ・クライ』(1976年)にはザ・バンドの全員が参加。彼の『オーガスト』(1986年)収録の"Holy Mother"は同年亡くなったリチャード・マニュエルに捧げられた曲で、2005年のアルバム『バック・ホーム』は、レイ・チャールズらと共にマニュエルとダンコにも捧げられている。

バンドとしてのデビューコンサートは、1969年4月17日サンフランシスコ市内のウインターランドであった。初日はロビーがインフルエンザに罹り、-心配したマネージャーのアルバート・グロスマンが催眠術師を呼んで治療に当った。-散散なステージで、7曲ほどを演奏して逃げるように退場したため、「ロックンロールのショウでは初めて経験する怒りと激情」(グリール・マーカスの言葉:『流れ者のブルース』バーニー・ホスキンズ著、奥田祐士訳 1994年 大栄出版)が溢れた。だが、翌18日のステージは、ロビーの体調も戻ったこともあり、見違える程の出来で前夜の屈辱を晴らした。アンコールの「スリッピン・アンド・スライデン」(リトル・リチャードのヒット曲)では客席は興奮の坩堝と化し、「ロックンロールの歴史に残る瞬間」(グリール・マーカスの言葉、前掲書より)と180度違う評価を受けた。

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